2009年3月29日日曜日

チカラ

 
「・・・筋肉をつけるように書くという修練・・・」

浮かんだ三島由紀夫氏の自伝的作品「私の遍歴時代」。
氏が最初の外遊から長く世話になる、朝日新聞出版局長の嘉治隆一氏からいつも言われていたのは
「小説家が長もちする秘訣は、一にも勉強、二にも勉強だ。広く見、深く究めることが大切で、毎日少しずつでもいいから、習慣的に古典か原書を読みつづけるようになさい。」
氏は忠告を守り、忙しくとも小むずかしい本に取り組む習慣をつづけたそうです。


どの世界も「長もち」は一等難し。
永続への憧れは困難あればこそか。
残るは時の試練を耐えた証。
それは美に迫りゆく力。


バルテュス最後の言葉は、彼の作品を知るほど沁みてゆく。

「続けてゆかねばなりません。」

 

2009年3月28日土曜日

クリエーター博覧会3について

 3月25日から29日まで大阪のメビック扇町で開催されているクリエーター博覧会に行ってきた。27日と28日の二日間、編集集団140Bの総監督で前ミーツリージョナル編集長の江弘毅氏によるワークショップに参加するためだ。参加したのは14名で男は僕を含め3名しかおらず、女性が多かった。
 江さんの話はのっけから抜群におもしろくて、ぐいぐいその世界に引き込まれていく魅力にあふれていた。レジメを読むとかなりレベルの高い内容となっていると感じるが、話を聞きながら進めていくので分かりやすくまた、深く考えさせてくれる。「僕らは何を書くのか」「何に書くのか」「何によって生計をたてているか」「何を表現しているのか」といった根本的な問いかけを、みんなで根性いれて考えようというのがこのワークショップの目的だ。
 二日間を通して感じたことは、人間的なもしくは身体的なコミュニケーションの重要性や、情報と情報化の違いの認識をもつということ、今までにないまったく新しいメディアを考えなければだめだということだ。
「どうしたらいいのか分からない時にどうしたらいいのかが分かることをその新しいメディアに乗せることこそクリエーターの宿命だ」と江さんは言っていた。
身体を鍛えるように筋肉をつけるように書くという修練をしながらああでもないこうでもないともがきつつ、考えて考え抜くしか道はひらけないということだ。だからもしそれが何か分かった時、あっと驚くようなものが生まれてくるに違いないと思う。
 そう考えるだけでワクワクしてしまう。

2009年3月18日水曜日

街の掟

ルール その1 頭ではなく身体で覚えろ
 
  知らない事は知らないとハッキリ言える大人になりたいと常々思っている。あまりにも情報があふれていて、あたまでっかちな人が多いからだ。だからできるだけ街へくりだして、現場のリアルな空気感とか気配を感じながら、身体を鍛えるように修練している。
携帯の中やパソコンの画面からでは得る事ができない様々な体験を街は味わしてくれる。

ルール その2 街の先輩に学べ

 行く先々で起こる出来事で分からない事があれば、街の諸先輩方に素直な気持ちで教えてもらうのが一番近道だと思う。すぐ尋ねるということではなく街場の付き合いの中で自分自身が覚えていくことだ。中途半端な知識やうわべだけのぺらぺらな態度はすぐバレる。
長年培って来た経験値がいちばん信頼できるに決まっている。
 
ルール その3 ただの消費者で終わるな

 あらかじめ調べていた情報を信じて、店で物を買う、レストラン等で食事する、もしくは株を買うなどいわゆる「消費」する事。
それ自体なんの問題もないのだがそれだけで満足して終わるのはつまらない。そこにいくまでのプロセスや紆余曲折な出来事があったり、予定していない事に遭遇したりしていろんな方向に展開していくほうが楽しい。

ルール その4 スタイルをもたない

 その場、その時、その気分によって変化していく様を楽しむ。肩のこるこだわりはもたない。流されるように流されない。

ルール その5 街のコトバを聞け

 インターネットや情報誌からでは検索したり調べることができないコトバが街場にはある。
自分の耳で聞いて覚えていくしかない。 
 
ルール その6 リズムを感じろ
  
 いい街にはかならずいいリズムを感じることがある。独特のグルーブ感というか、メロディが流れている。その流れにうまくのる事ができた時、街に愛されていると感じとれるのではないだろうか。

ルール その7 ルールを鵜呑みにするな

 街は生きている。どれが正しいか正しくないか決められない。自分と差し向かい合うことでしか感じることができない何かを教えてくれる。少しづつ、少しづつ、積み重ねていって身に付いてくるとそこにはごきげんさんが待っているはずだ。
 








楽しい器

 
新しいのと古いのでどちらを選ぶかはその人の資質にかかっているとしても、
人とモノには巡り合わせがあると思う。
縁あって君と巡り合ったギター。大事にしてやってください。
楽器があるだけでその空間が豊かになるそうです。
聴くだけより、弾くとさらに広がる世界は豊かな人生の財産です。

P.S.
煩悩を絶つことが出来た状態って
「私、生きてます」
って言えるんだろうか。
と常々考えてしまう私は煩悩の奴隷だからか。 タイラー・ダーデン現れないでくれ。

 

  

2009年3月16日月曜日

旅するギター

路上→君 →絵描き→俺。
この順番であってんの?
 
今日たどり着いた。まさかこいつも俺のとこにくるとは思ってないやろ。ろくに弾けない奴のところに、あーびっくりした。
なんやでも手にとってみるとこれがまたしっくりくるわ。そやなあ名前つけたるわ。ジミー、ってどう?あかんな。べたやーっ。
これ確かマーキーの実家で作られたやつやなあ、間違ってたらごめん。ほんなら英語読みでMARKYにしよか。「勝手にせい」て聞こえてくるわ。もうええって?ほなこのへんで帰らしてもらうわ、どうもありがとうございましたあ。ちゃかりんちゃんりんちゃんりんちゃんりんでんでん。はよ練習しょ。
 
 「生きるため」何かをする。飯を食う、水を飲む、眠る、恋をする、本を読む、働く、遊ぶ
勉強する、音を聴く、海を見る、呼吸する。
 本能はどこまでも計り知れない。そして俺の煩悩は絶つことができない。
 
 

写る真

 
そのふたつの言葉を聞いて得心した。

「時空のゆがみとか考えるより、自分の心のゆがみを考えなさい」

「写真とは光と時間の化石である」

森山氏の写真を見た時の違和感、
ハッキリ言えば好きになれない原因が何であるか、を知ったのだ。
写真に対する考え方に大きな相違はなく、方法が違うだけなのだと。

我々が写真に求めるのは単なる記録ではない。
偶然の集積だけで捉えられない無数の選択を経て出来る写真には「何か」を期待する。
少し前なら「表現」という言葉を使ったが、それには違和感を覚えだしている。
無意識でも写真は撮れるし、評価は受手の問題としたら・・・。

では、なぜ私は写真を撮るのか。

結局「生きるため」ということに行き着くのだろうか。
大げさで極端なところに飛躍したようだが、実感として今そう考えている。
 
 
 

2009年3月15日日曜日

往復書簡はじめました

 最初のテーマを何にしようと考えていたら、ちょうどNHKで森山大道のETV特集が放送されたので写真にしようと思う。今や携帯電話にはあたりまえのように搭載され、コンパクトデジタルカメラは子供からお年寄りにいたるまで普及するようになった。そこで撮られている写真は大半がスナップ写真だ。記憶に残すために撮ってるのか、記録として撮ってるのか、ブログにアップするためなのか、人それぞれどれも正しい行為にちがいない。しかし昔のアルバムをめくるような郷愁や、懐古は感じられないだろう。アナログがデジタルに変わったからなのか?分からないが、何か足らないような気がする。

 森山大道が専門学生に「時空のゆがみとか考えるより、自分の心のゆがみを考えなさい」と言っていたのが印象的だった。
彼いわく「写真とは光と時間の化石である」
都市の変ぼうを撮り続ける路上のカメラマンに強烈に刻まれている野良犬の記憶が今もわれわれにせまってくる。
 

コーヒーがめちゃめちゃ好き

 毎朝起きてまずすることがコーヒーをいれることだ。毎日飲まないとなにもする気になれないのだ。コーヒーミルでウィーンとやってペーパードリップでおとしている。コーヒーメーカーも使う時はあるが、紙で直接いれるほうが早いしうまい。飯を食った後もすぐ飲みたいからこの方法でいれる。ほんならインスタントでええんちゃうといわれそうだが嫌なのだ。もちろん砂糖もミルクもいれない。ブラックオンリーだ。しかたなく缶コーヒーを飲む時もブラックだ。微糖ってなんやねん、ってあかんあかん。あれは邪道や。
 そんな感じで一日最低6杯は飲んでる。完璧にカフェ中なのだ。夜も寝る前に飲んでもぜんぜん眠れる。おれにとってコーヒーはもはや血液の一部なのかもしれない。