2010年7月25日日曜日
ものものがたり
極々個人的なことではあるが書いてみたい。
もの。これへの執着を罪悪とする自分がいる。俗世は消費を讃え止まないが、それに抗う感情をぬぐえぬまま、ものへの執着を断ち切れたらと夢想して過ぎる日々は、決して楽な生き方と言えまい。
震災を通じて物質の空虚さは身をもって学んだはずが、喉もと過ぎて繰り返す以前と少しも違わない生活が現実。もちろん全てのものを否定はできない、できるはずもない、無味無臭の人生に興味もない。ただ、多くのものに縛られず、惑わされず、振り回されない生活ができれば、より豊かな営みが実現されるという想いは幻想だろうか。
生まれつきかは分からぬが、もともと禁欲的なものへの憧れはある。青臭い理想論者といわれればそれまでだが、単純なもの本質的なものを、極端に希求しようとする癖と言えなくも無い。守護霊が見えるという親戚によると、私には流浪の修行僧がついているらしい。自分では霊など見えぬから、いてくれたほうがいろいろ辻褄が合うから助かるが、俄かに信じてはいない。とはいえ、ものへの執着をできるだけ断ちたいという想いに嘘はない。
対策として最初に考えた、もの自体に執着を喚起する魅力があるのではという仮定は、とりとめなく浮かぶ結果と、他のせいにしようとする自分に嫌気が差して諦め退けた。
結局自分を見つめるしかない。すると自分の弱さが原因でしかない、となってくる。さらに、弱さにつけこむ余裕がものの増殖に加担しているのは間違いなさそうではあるが、手に余る富裕は言うに及ばず、俗世に生きる我々が無理に苦行者のごとく飢餓状態から豊かさを求めるのは歪んだ精神のような気がしてならず、欲の手綱の塩梅と、それを支える思想に豊かさの肝心があるように考えるのがまともなのであろうと行き着いた現時点。
与えられたもので間に合わさざるを得ないのは万事共通の理、本当に必要なもの、大事なもの、それを見極める目を養う日々が道を示すのであろう。
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