2009年4月28日火曜日

メイプルソープとコレクター

 貴重な助言に感謝。模索しながらもがきながら自分の言葉を探していきたい。

さて5月2日からテアトル梅田で公開される映画『メイプルソープとコレクター』は君のことだからすでに承知のことだろう。今年で没後20周年になるメイプルソープ。 HIVにより43歳という若さで亡くなったが、その芸術表現における彼の写真の数々は、性のボーダーを超えて、常にスキャンダラスな論争を巻き起こした。70〜80年代のアートシーンに多大な影響を与え現在でもその研ぎ澄まされた美しさは観るものを魅了し続けている。そんなメイプルソープと稀代なコレクター、サムワグスタッフとの関係を描いているらしい。個人的にはアンディウォーホルなど当時のポップアーティストとのからみや作品の数々がどのように紹介されているかが楽しみだ。もちろんパティスミスも登場するだろう。当時のアートシーンやそこで活躍していた人たちの貴重な映像に心をうばわれるに違いない。

2009年4月23日木曜日

批べ評する

  
批評すべきか、悩んだ。

君の記事がどうこうでなくて、前稿の冒頭でも記したが、
「批評」を、不要と考えているからだ。
もちろん私も日常生活で、自身の指標として「批評」・「批判」を繰り返している。
誰しも、どんな些細なことでも、無意識にでも、これを行っているはず。
それは自分の位置を確認するためで、
本来、他人と優劣をつけることが目的ではない。
しかし、何かを「良い」とすると、他方は「悪い」と受け取られる。
それを、恐れている。一応、公の場であるから尚更と考えた。
まして自分の文章力を棚に上げる必要もある。
とはいえ、勝手に大げさに考えられたとして、君を閉口させたくもない。
軽い気持ちの批評依頼と汲み取って、なんとか試みたい。

そこで、代わりにはならぬが、もし仮に批評を受ける立場として自分がこの様な記事を書くなら、何を拠所にするのか考えてみることにした。

誰に、何を、どのように、伝えるか。
他にも何時、何処で、など様々あるが、基本はこれで良いと思う。
でも何より大切なのは自分の位置ではないか。
自分の濃度と言い換えても良い。
自分を消して情報だけをただ並べた淡白なモノから、
自分の考えだけを読者に問う濃厚なモノまで。
どちらも極端にすると食えたモノではないが、
その立ち位置、濃度によって出来上がったモノの味は変わる。
私は基本的に淡白志向が強いように思っているから、それを軸に展開すると思う。

期待に添えず、申し訳ないが、精一杯である。。。

 

2009年4月18日土曜日

メディアと向き合うアスリートの心

大阪編集教室で「インタビュー記事を書くために」という講義をうけてきた。雑誌『Number』でも活躍中のノンフィクションライター、城島充氏が担当してくれた。しかもゲストにプロボクサーの元WBC世界ミニマム級王者、高山勝成さんが来てくれていた。以下は二人の疑似インタビューを兼ねたトークセッションをふまえて自分なりに記事にしてみた。よかったら批評してみて。

初めて囲み取材を受けたのが、17歳の時に全日本ライトフライト級新人王を獲った時だ。当時はマスコミからはダークホース的な存在であったため、まさかという目で驚かれたという。
取材に対してはやはり緊張していたし、受け答えの準備などはまったくしていなかった。そのため聞かれたことに対しては素直になんでも答えてしまったため、翌日のスポーツ紙にはどうでもいいような事まで書かれていた。これまでの取材を通して嫌だなと感じたことは、自分のボクシングスタイルを正当に評価してくれないことや、表面上だけで判断されてしまうこと。
教科書どおり、マニュアルどおりの質疑しかされなくて、さみしい思いをしたことだ。本音を聞いてほしいのに、なかなか聞き出そうという人があらわれなかった。
そんな彼に一人のノンフィクションライター、城島充氏との出会いがあった。「初めてジムで会ったとき彼が帰り支度をすませているにもかかわらず、ずっと先輩達のスパーリングを見つめていたのが印象的だった」と城島氏はふりかえる。
「ボクシングはいくら見ててもあきない」と答える彼にまっすぐな純真な心を感じたという。
それから後に兄弟のような信頼関係を築きながら素直な気持ちを語れるようになっていった。
見出しありきの談合的な記事のすり合わせや商業的にパッケージングされた質疑応答。こちらの都合にあわせた誘導尋問など、そういったマスコミに対しては表情や目から読み取ることができるという。
「僕は自分の感性を第一にトレーニングしているのでそちらも感性をしっかり磨いた上で取材してほしい」「僕のことを知りたいという感性がこっちに伝わってくるかどうかで心を開くことができる」という彼の言葉にメディア側の姿勢が問われている気がしてならない。
城島氏は「ノンフィクションの世界では取材の対象となる人と親しくなると、ネガティブなことはなかなか書けなくなる。批判できることを許してもらえる関係性を保ちながら一定の距離間をとるのは難しい」とコミュニケーションの難しさを語ってくれた。
「ボクシングをやめようと思ったことは一回だけある」
「命を削ってトレーニングをし、命をかけてリングに上がったのに、あの結果には気持ちが冷めた」
あの結果とは2007年4月7日、後楽園ホールでのWBA世界ミニマム級王座をかけての対戦のことだ。詳細は同年5月号のNumberに城島氏による『自己証明。ボクサー高山勝成の戦い』というタイトルで掲載されている。彼は「その記事を読んで再確認した」と感慨深げだった。
「もう一度やろうとしたきっかけはいつもそばにいるトレーナーが背中を押してくれたから」と感謝の気持ちをあらわし、「ボクシング界のためにやろうと考えずに、違う世界でがんばっている人々のためにもリングに上がり、勝つことで勇気を与えていきたい」と決意をあらたにしたという。
勝つか負けるかの厳しい世界。負けた時にその理由や原因を探して向き合う精神力。先へ進むには決してさけてとおれない道がある。真摯な態度でボクシングと向き合う26歳の若き青年の目に熱い闘志をみた。


2009年4月16日木曜日

目には目を

 
料理の良し悪しは好みであり、個人の考え方や教養、文化であると思っているから
誰が何を食べようが勝手にすればいい。
「批評」は料理に限らず本来不要なものだが
指標としての感想程度であれば人によっては有り難い情報かもしれない。

だが評価を拒否する店を掲載するなら単なる犯罪ではないか。

誰でも知ってる世界のタイヤ屋さんが営業妨害という恐喝を、
お金を払って食べたから何をしても良いとは考えてないと思いたい。
まぁ話題作りの強気のコメントと受け止めておくが、
一番踊らされてることに気づいていない幸せ者はその本を買う人間なのかな。

もし被害者の会でも出来たなら、星付け会議メンバーの素行調査を敢行し
顔写真入りでランク付けして、報道の自由の名のもとに出版し推薦して差し上げては。
 
 

2009年4月15日水曜日

☆で測れぬ歴史

4月15日付けの讀賣新聞の「ニュースが気になる!」で「ミシュラン 京都 大阪版」のことが取り上げられている。
 ミシュラン側の評価が「皿の上の料理のみ」とするのに対し、老舗料亭などが「料理だけでなく、店全体の雰囲気なども評価されるべきだ」と反発、調査を拒否した店もある。対象からはずれた神戸の店からは「なぜ......」と不満もでており、反応は様々だ。さらに星付け会議の議長を務めるナレ氏(48)は「我々は歴史を評価するのではなく、お客さんに毎日出す料理で評価している。読者に店を推薦するのに、お店の許可は必要ない」と拒否されても、掲載すると説明している。
関西の食文化もなめられたもんだ、と正直思った。京都、大阪のこれまで培ってきた老舗や地元の人々に愛されて育んできた店達が、昨日今日訪れて来た顔の見えない異国の人に勝手に評価される筋合いは、まったくといってない。まして掲載を拒否している店を無視して載せるなどというのはメディアとして論外だ。あきれてしまう。「なんぼのもんじゃい」と言ってしまいたくなる。
確かに世界的に名の知れた本であるには違いないし、世界中の人達に関西の食が紹介されるのはいい事だと思う。ただその評価に対する姿勢がいかがなものかということだ。こういう本がでると、手にした読者は星で格付けされた店に問い合わせをしたり、実際に足を運んでしまうだろう。それはそれでお客さんが増えていいじゃないか、という甘い考えでは決して終われない店側の事情があることを理解しないといけない。それは一見さんが押し寄せてくることで、その店や味、ご主人やおかみさんが好きという理由で来ていた今までの常連さんや、ひいきにしていた他のお客さんの足を遠のかしてしまうおそれがあるからだ。
長年の付き合いの中でこそ生まれる店と客との信頼関係、雰囲気、そういったものが壊されてしまうのではないだろうか。おそらく彼らのなかではそういう意識はまったくなくおかまいなしなのだろう。東京版で味をしめて今度は関西か。
本来ならばお店というのは格付けなどというばかばかしい尺度で測られるべきではない。
それはきちんと歴史がおしえてくれているはずだからだ。
「大阪、京都、神戸のほんまもんのうまい味やええ店をおまえらには分かっていらんわい」
と街の声がそういっている。