ええ加減を愛する男になりたい
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価値観
人によって価値観は多種、多様で複雑だ。よく夫婦の間で価値観を共有するということを聞くが、完全になにからなにまで同じということはあり得ないと思う。男と女という時点でもう違いがあるし、育ってきた環境や受けてきた教育も違うし、そのなかで培われてきた自分の考え方も違う。それなのに価値観が同じで共有しているという。思いは一緒なのかも知れないが、価値観まで同じであるということには疑問を感じてしまう。
ちょっとしたことでも、気になるのが人間だし、それを否定する気もない。
どちらかが、相方に合わしているのが真実ではないのか。少なくとも俺はそう思う。合わしているうちに自分の価値観も同じになっていくというのが自然のながれではないか。長い時間を一緒に過ごしていると、そうなっていくと考えられる。
難しいのは、そこに愛情という感情が入り込んでいることだ。夫婦ならばお互いを尊重し、助け合うのが理想とされる。
愛しているから、あなたの考え方に同意するのか、考え方に同意するから愛しているのか、順序が逆になるとそもそものきっかけが違ってくる。
もしくは、価値観とは切り離して考えないといけないのかもしれない。
いずれにせよ一人一人の個性を持った人間同士が、同じ価値観を共有していくことはそうとう難しいことに違いないだろう。
ちょっとしたことでも、気になるのが人間だし、それを否定する気もない。
どちらかが、相方に合わしているのが真実ではないのか。少なくとも俺はそう思う。合わしているうちに自分の価値観も同じになっていくというのが自然のながれではないか。長い時間を一緒に過ごしていると、そうなっていくと考えられる。
難しいのは、そこに愛情という感情が入り込んでいることだ。夫婦ならばお互いを尊重し、助け合うのが理想とされる。
愛しているから、あなたの考え方に同意するのか、考え方に同意するから愛しているのか、順序が逆になるとそもそものきっかけが違ってくる。
もしくは、価値観とは切り離して考えないといけないのかもしれない。
いずれにせよ一人一人の個性を持った人間同士が、同じ価値観を共有していくことはそうとう難しいことに違いないだろう。
2010年7月25日日曜日
ものものがたり
極々個人的なことではあるが書いてみたい。
もの。これへの執着を罪悪とする自分がいる。俗世は消費を讃え止まないが、それに抗う感情をぬぐえぬまま、ものへの執着を断ち切れたらと夢想して過ぎる日々は、決して楽な生き方と言えまい。
震災を通じて物質の空虚さは身をもって学んだはずが、喉もと過ぎて繰り返す以前と少しも違わない生活が現実。もちろん全てのものを否定はできない、できるはずもない、無味無臭の人生に興味もない。ただ、多くのものに縛られず、惑わされず、振り回されない生活ができれば、より豊かな営みが実現されるという想いは幻想だろうか。
生まれつきかは分からぬが、もともと禁欲的なものへの憧れはある。青臭い理想論者といわれればそれまでだが、単純なもの本質的なものを、極端に希求しようとする癖と言えなくも無い。守護霊が見えるという親戚によると、私には流浪の修行僧がついているらしい。自分では霊など見えぬから、いてくれたほうがいろいろ辻褄が合うから助かるが、俄かに信じてはいない。とはいえ、ものへの執着をできるだけ断ちたいという想いに嘘はない。
対策として最初に考えた、もの自体に執着を喚起する魅力があるのではという仮定は、とりとめなく浮かぶ結果と、他のせいにしようとする自分に嫌気が差して諦め退けた。
結局自分を見つめるしかない。すると自分の弱さが原因でしかない、となってくる。さらに、弱さにつけこむ余裕がものの増殖に加担しているのは間違いなさそうではあるが、手に余る富裕は言うに及ばず、俗世に生きる我々が無理に苦行者のごとく飢餓状態から豊かさを求めるのは歪んだ精神のような気がしてならず、欲の手綱の塩梅と、それを支える思想に豊かさの肝心があるように考えるのがまともなのであろうと行き着いた現時点。
与えられたもので間に合わさざるを得ないのは万事共通の理、本当に必要なもの、大事なもの、それを見極める目を養う日々が道を示すのであろう。
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